初恋はイタい嘘

 ――恋ってさ、逃げ水みたいだって思うんだよ。
 ――追えば逃げる。逃げれば追っかけてくる、ってね。
 ――まぁおまえはまだそういうの知らないだろ。超奥手だもんなぁ。

 兄ちゃん、今、思いっきり判ったよ。
 追っかけたら、思ってたのと違う幻影で、逃げたら周りから水ぶっかけられてる状態だ。

「高井! おまえ、安藤さんと一緒に仲良く帰ってたってなー。付き合ってんのか?」
 朝、蝉どもがうるさく鳴きわめく街路樹の下をうんざりとした気分で歩いて登校したら、廊下でいきなり隣のクラスのダチと、その仲間二人に囲まれた。朝っぱらから真剣そのもののギラギラと音がするかって程の目つきだ。このクソ暑い天気でさえうっとうしいのに、そろいもそろって暑苦しいんだよおまえら。
「いや。たまたま一緒になっただけで、そんなんじゃないよ」
 本当は、昨日の下校の時は確かに下心、いやいや、恋心はあったけど、今はそんなの残ってないし。
 しかし一緒に帰ってるのを見られてたとは。あぁ、部活帰りの誰かか、と心の中で舌打ちして、俺は昨日のことを思い出す。

 放課後、暑いのが苦手な俺は、半月後に迫った一学期の期末テストに備えて図書館に行った。図書館はクーラーがかかってるからな。家じゃ節電とかエコとか、もっともらしい理由をつけてめったにクーラーなんぞつけてくれないし。
 梅雨が明けてから途端に猛暑で脳みそが煮えそうだ。俺は図書館に逃げ込んだ。
 そこで、俺は出会った。
 勉強を始めてすぐ、俺がうっかり落としてしまったプリントを拾おうとしてくれた女の子が、安藤さんだ。
 偶然、俺と安藤さんの手が重なって、二人とも慌てて引っ込めて、思いがけず見つめあった。
 その瞬間、こう、胸がドキッとした。すごく単純な言い方だけど、本当にそうだった。
 一言であらわすなら、清楚なお嬢様。
 さらさらのストレートの黒髪、透き通るような白い肌、特別美人とは言えないかもしれないけれど、十分に可愛い顔。
 俺の手と重なった彼女の手、今は胸元にひっこめられている手は、そう、白魚のようって呼ぶにふさわしい。細くすらりと長い指、爪にはうっすらと淡いピンクのマニキュアを塗っていて、控えめにおしゃれを楽しんでいると言った感じ。俺はいろいろと塗りたくってるのより、こういうのがいい。
「あ、ごめんなさい」
 場所が図書館だからか、囁くような彼女の声は澄んでいて耳に心地よかった。
 もう、何から何まで俺の好みだった。
 親の仕事の都合かなにか知らないけれど、期末テスト前だと言うのに隣のクラスに転校してきたばかりの安藤さん。その日からアイドル扱いで、こっちのクラスにまでその騒ぎは飛び火してたから存在は知っていたけれど、正直言って興味なかった。
 けれどこうして間近で見て、なるほどみんなが騒ぐわけだと納得した。
 安藤さんのことを、一瞬で好きになっていた。
 けれど女の子と付き合うどころかろくに話もしたことがない俺は、特に何をするわけでもなく、お礼を言って勉強に戻って行った。……集中できなかったのは、言うまでもないけど。
 一応勉強らしいことをして、でも頭に残ったのは安藤さんの姿と声だけという情けない時間の過ごし方をして、学校を出るところで安藤さんが後ろからやってきた。
 どうも帰る方向が同じっぽい。
 これはチャンス。でも何を話せばいいのやら。
 戸惑いながらドキドキしていた俺に、安藤さんが追いついて話かけてくれた。もう、天にも昇る気持ち。でもすっごく緊張もした。
「すごい汗ですね。それに、顔が赤いですよ。あ、よかったらこれ使ってください」
 いや、汗いっぱいなのも顔が赤いのも、暑いからだけじゃなくて、なんて言えない俺に彼女はハンカチを差し出してきた。ピンクで、淵はレース編みしている、女の子らしいハンカチだ。
 ハンカチを借りて、ちょっと話して家が結構近いことが判って、それでもうテンパった。後は何を話してたか覚えてない。
 でも夢のような時間だったんだ。
 安藤さんと別れて家に帰ってからも、考えるのは彼女のことばかり。
 恋って、こんなにハッピーな気持ちになれるんだな。
 惚れたのなんだのって、すっごく面倒っちぃことにみんなよく夢中になれるよな、とか思ってたけど、理想の女の子を目の当たりにして、なるほど納得だ。
 彼女のあれやこれや、思いだせるだけのしぐさなんかを思い浮かべてはニヤけてる。
 家、近いんだったっけ。きっとすごくきれいな家で、家族もみんな上品で、テレビに出てくるような上流階級なんかの家族を勝手に想像してしまった。
 そして燃え上がるような恋心は、自他共に認める面倒くさがりの俺にものすごい行動力をくれた。
 そうだ、ハンカチを返しに行こう。学校だと変に騒がれても困るし。何せ相手は隣のクラスのアイドルだもんな。
 我ながらいい考えだ、と、俺は借りたハンカチを洗って、「あんた、それそれ女の子のだろ。へぇー、ほぉー」と、不覚にもおかんに見られてからかわれながら慣れない手つきでアイロンをあてた。息子の恋路は温かく見守るのが母親ってもんだろ。からかうなっての。
 おかんの追撃を振り切って、家を出たらもう夢見心地で安藤さんの家を訪ねた。
 家は、新築で綺麗だった。ますます上流階級っぽいよな、と思いながら、インターホンに手を伸ばした。
 その時、中からものすごい足音が聞こえてきて、玄関のドアが開いた。
 まず飛び出してきたのは小学生くらいの男の子。
「やーい、もうエビフライないもんねー」
 小憎たらしい男の子は後ろに向かって言う。そしてすぐにその子を追いかけてきたのはジャージ姿の、俺と同い年くらいの女の子だ。
 髪を振り乱して、鬼のような形相の。
 かわいくて、優しくて、おしとやかで清潔感あふれて……、た。安藤さんだ。
「まてこら、このちびがきっ! あんた人のおかず取るなんて百万年早いんだよっ。食いもんの恨みは――」
 目があった。妙な沈黙。そして乾いた笑い。
 さっさとハンカチを返して、俺は家に帰った。
 理想の人だと思っていた安藤さんは、その理想からは百八十度、対極にいた。
 俺の恋は一瞬にして終った。

「たまたまぁ? おまえ、わざとゆっくり歩いて安藤さんに追いついてもらったんだろ」
 隣のクラスの男の声で、はっと我に返った。
 そうそう、わざとゆっくり、って、正直に言えるかよ。
「俺、暑いの苦手だから、だらだら歩いてただけだって」
 我ながら苦しい言いわけかと思いつつ言うと、元クラスメイトのダチ――松本はなるほどとうなずいた。
「確かに高井は暑がりだもんな」
「だろ? それだけだって。別に安藤さんのことはどうとも思ってないし」
 これを契機に一気にたたみかけて逃れようと早口で言ったが、それが裏目にでたようだ。
「怪しいな。あの安藤さんだぞ。どこに不満があるんだ」
 一人が言いだすと、周りもそうだそうだと同調する。おまえら、俺と安藤さんが付き合ってた方がいいのか、違うのか、どっちだよ。
「人の好みなんて、それぞれだろ。俺はあんなのはごめんだ」
 つい、兄弟喧嘩中の彼女を思い出して吐き捨てるように言った。
 それがますます不評を買う。
「あんなのぉ? おまえ、目ぇ腐ってんじゃねぇ? 優しくて可愛くて、頭もいいし運動も不得意じゃない安藤さんのどこに不満があるって言うんだ」
 そうだった。安藤さんはアイドルだった。学校では。
 みんな、あの安藤さんを知ったらどういう反応なんだろうか。
 そう考えた時。
「あ、安藤さんだ」
 誰かの声にドキッとする。別に考えてたことがばれたわけでもないのに妙にうろたえてしまった。
「おはようございます」
 安藤さんがみんなに挨拶をした。こういうしぐさを、しずしずと、って言うんだろうか。お辞儀ひとつとってもお嬢様だ。
 ふと、顔をあげた安藤さんと目があった。一瞬、彼女の口元がひきつった気がした。
「おはよう」
 みんなが口ぐちに挨拶するから、俺だけしないのもなんだなと思って、頭を下げた。
 安藤さんは何やら言いたげにこっちを見ていたが、それも少しの間で、すぐに教室に入って行った。
「……やっぱ、なんかあやしいなおまえら。何かあったんだろう」
 彼女が行ってしまうと、また矛先がこちらに向いて、厳しく突き上げてくる。
「あー、判ったぞ。おまえ、安藤さんに告白して振られたんだろう。だから、悔し紛れに『あんなの』とか言って興味なさそうなふりをしてるんだな」
「なるほどそうかっ。それなら納得いくぞ」
 誰かが言いだしたことに周りのみんなが同調する。
 違う! 告白なんてする前に俺の恋は終ったっつーの!
 言いかけて、いつの間にやら、俺を囲んでいる人数が増えているのに気付いた。これじゃいい晒しもんだ。
 あんぐりと開いた口と、少しの間止まった思考をどうにか正常に戻して、反論する。
「告白なんてしてないって」
「あー、じゃあ告白する前か」
「さっさと男らしく、当たって砕けろ」
「そうだ、砕けろ!」
「だから違うってのに!」
 なんかもう、反論すればするほどどツボにはまって行く気がする。
 そんな俺を救ってくれたのは、始業を知らせるチャイムと、教室に入れと怒鳴る先生の声だった。いつもはうっとうしいのに、何て耳に心地よかったことか。

 俺が安藤さんに惚れているというウワサは、一気に広まった。
 隣のクラスと俺のクラスは言うまでもなく、もう学年中って感じで。
 攻撃や、からかいの対象は、当然といった感じで俺に向かってきた。
 容易に近づけない「高嶺の花の安藤さん」と一緒に帰ったことを本気でやっかんでる連中もいるし、単にお祭り騒ぎのように便乗してからかっているだけの奴もいる。人の尻馬に乗るって楽でいいだろうなぁ。けっ。
「まぁまぁ、おまえもしばらくおとなしくしてろ。ウワサなんてすぐに消えるよ」
 松本が気の毒そうに話しかけてくる。こいつとはクラスが離れてしまったがまだ時々一緒に遊んだりする仲で、今回のことも本気で案じてくれてるみたいだ。
 敵の中での唯一の味方って感じだ。やっぱり持つべきものは友だな。
 そんな中、一学期の期末テストに突入した。さすがにテスト期間中は前ほどうるさくなかったのが救いだ。
 テストの出来は、まぁいつも通り。得意な科目は手ごたえ十分だったし、苦手な科目は赤点さえとらなきゃいいや、ってところだ。
 すべての採点が終ってテストが返されたら、学年の半分以内に入った奴の名前と点数が張り出される。
 お、あった。ぎりぎり後ろから五番目。不得意科目が赤点すれすれだったからこんなもんか。でも半分以内に入っていたからこの結果にはまぁ満足だ。半分以下だとさすがに親ももっと勉強しろだとか、塾増やすかとか言ってくるだろうからうざいんだよな。
 別に気にして探したわけじゃないけれど、安藤さんの名前がベスト三十以内に入っているのを見かけた。これでまた彼女の株が上がるな。また何かと言われるぞ。転校してきたばかりなのに安藤さんはすごいな、とは素直に思うけど、ちょっと憎たらしい。
「高井ー。惚れた女の方が成績上ってどうよ?」
 ほら来た。どうよ、もくそもねぇっての。
「別に」
「別にぃ? なにアイドルの不機嫌会見みたいなこと言ってんだよ。おまえが言っても似合わねぇっての」
 周りで馬鹿笑いが起こった。
 あほくさ。さっさと無視してその場を離れた。
 テストが終わったら、夏休みはすぐそこだ。学校に行かない間はこんな騒ぎもないわけで、その間に風化していればいいなと思うよ、ほんとに。
 けど、もし、俺があのまま安藤さんのことを好きなままだったら、……一体どんな騒ぎになっていたんだろう。そう思うと「本性」をさらけ出してくれてさっさと冷めさせてくれた安藤さんには感謝かな。

 夏休みは、思っていた通り平和だ。すっごい解放感だ。
 部活をやっているわけでもなし、塾もテスト前に比べてゆるゆるだし。だらっだらな時間の過ごし方って最高だ。
 扇風機がゆるゆるとぬるい風を部屋にまき散らす中、うちわであおぎつつ寝っ転がって、適当にテレビつけたら高校野球やってて、別にひいきの高校なんてないけど地元の学校が出ていたらなんとなく応援して。
 宿題やれとうるさく言われたくないから、ぼちぼちやって親の目をはぐらかす。
「そういや、あんた、ハンカチ借りた子とはその後どうなってんの?」
 夕食の時、おかんがいきなり尋ねてきた。うおぉ、とんだ伏兵だ。冷やし中華の麺、噴きそうになった。
「どうって、ハンカチ返してそれで終わりだけど」
「それだけ? つまらんなぁ」
 もうその話はいいっての。せっかく学校でのばか騒ぎから離れてほっとしてるのに。
「つまらなくていい」
「けど、ものぐさなおまえにしちゃ、その子のところにハンカチ返しに行くなんて積極的じゃないか。可愛い子なのか?」
 兄ちゃんまでつっこんできた。この人、今カノジョとラブラブだもんな。ハッピーそうな顔でニヤついている。
「いや、とんでもなかった。弟とエビフライ取り合ってたし」
 最初に可愛いと思ったのは言わなくてもいいだろう。
「なんだ、可愛いと思ってたら、はっちゃけてたってか。おまえそれはギャップ萌えじゃないか。萌えのなんたるかが判ってないなぁ」
 兄ちゃんはさももったいないと言わんばかりのあきれ顔。
「そんなもん、判らんでいい。とにかく興味ないの」
 それっきりその話にはノーコメント。茄子の漬物をぽりぽりっと噛んではぐらかした。



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