すべてが夢ならば

 アキナが死んでしまって一年を迎えた今日、俺は、日常を、今までの俺の中の常識を飛び出す。



 妹のアキナが体調を崩しだしたのは一年前の春ごろだった。
 あの頃は俺は高校二年生になったばかりで、アキナは小学六年生だ。年が離れているからか、あんまり喧嘩することもなく、仲良くやってきた。
 春産まれの俺、ハルトと、秋産まれの妹、アキナ。でも性格は逆だとよく言われていたっけな。
 俺はあんまり大勢と一緒に何かをするのは得意じゃない。別に嫌われたり避けられたりしているわけでもないと思うけれど、一人の方が気楽だと思うことも多い。
 反対にアキナはなにかと活発で友達も多くいた。
 春の芽ぶきのようなアキナと、秋の落ち着いた雰囲気のハルト、なんて言われてた。
 アキナが最初に体調不良を訴えたのは、新年度が始まって二週間目ぐらいだったか。めったと風邪もひかないアキナが、だるそうにしていたから驚いたのを覚えている。
 新年度だし、緊張から疲れが出たんだろう、と最初は本人も家族も気楽に考えてたし、近所の内科でも似たようなことを言われた。栄養を取って休める時にできるだけ休むように、との診断で、その通りにしていたら三日もすればまた元気になった。
 よかったと安心したのもつかの間、治ったと思ったらまた体調不良になる。
 その繰り返しで、ゴールデンウィークが終わる頃には、あんなに元気に遊びまわっていたアキナは、家にいる間はソファや布団でごろごろしていることが多くなった。
 大きな病院でみてもらおうと両親が連れて行ったけれど、検査をしてもどこも悪くない、と。
 それから少しして、大きく体調を崩したアキナが横になってる布団のそばで、大丈夫か? と聞くと青い顔で「うん」と笑うアキナがよけいに痛々しく感じた。こんなに元気のないアキナを見るのは初めてだったから、怖かった。
 アキナはインフルエンザにかかったって軽く済んで、熱が出ている間もけろっとしていたのに、どうなっちゃったんだろう、もしかして大きな病気なのか、と自他共にクールと認めてる俺も、さすがに心配になった。
 早くよくなってほしい、早く前のように元気になって、うるさいくらいに話したり笑ったりしてほしい。
 俺は心から願った。
 両親はアキナをいろいろな病院に連れて行った。内科や神経科、いろいろとみてもらったが、だんだんと内臓の働きが弱くなっているという症状は判っても原因が判らない。
 アキナはいつも、誰かがそばにいると笑っていた。笑顔を絶やさなかった。それが救いだったけれど、両親の会話や雰囲気で、アキナの容体がよくないのだということは俺にも判った。
 栄養剤なんかを点滴したら少しはよくなるけれど、それも長くは続かない。
「大丈夫。わたしすぐによくなるからね。そうしたらまたどこかおでかけ連れてって」
 アキナは必死に原因不明の病と闘っていた。
 それこそ藁にもすがる思いで、両親に連れられてアキハは大きな病院を転々とした。でもどこで検査しても原因が判らない。判っているのは、内臓の働きが弱っているということと、検査のたびに数値が少しずつ悪くなっていっているということだけだ。
 だめかもしれない。
 両親が夜中に、涙ながらにつぶやいたのを、俺は聞いてしまった。
 その一言が、家の希望と言う明かりを消した。
 アキナが死んでしまう? そんなばかな。信じたくなかった。
 アキナは体調のいい日は学校に行きたいと言い、登校させるかさせないかで両親が喧嘩するようになった。
 原因も判らない、手の施しようがないのならせめてアキナの願いを叶えてやったらと言う父と、そんなことをして倒れてそのまま死んでしまったらどうするのだと嘆く母。
 俺は、どっちに賛成することもできなかった。
 父の言い分も判るし、実際にアキナの世話をすることになる母が、苦しむアキナを見たくないという気持ちも判る。
 だから、手の空いている時に両親の手伝いをしたり、アキナの話し相手になってやることぐらいしかできなかった。
 季節はいつの間にか夏になっていた。
 その頃になると、アキナは病院のベッドで寝てばかりになっていた。
「ねぇ、お兄ちゃん。わたし死んじゃうのかなぁ」
 見舞いに行くと、珍しく起きていたアキナが、初めて弱音を吐いた。今まで何があっても「治る」と言い張っていたアキナがまるで自分の死期を悟った末期患者のような顔で、ぽつりと、漏らした。
 どきっとした。妹の言ってることが真実なんだろう、って思った自分がいたから。
「なんで? 今までは頑張るって言ってたのに」
 俺は肯定も否定もできないで、とっさに出てきたのは問い返す言葉だった。
「うん……。あのね、いやな夢を見るたびに、体の調子が悪くなるの。最近、いやな夢ばっかりだから」
 つまり最近体の調子がどんどん悪くなってると判るからということか、とアキナの言葉を解釈して俺は低く唸った。
「それは逆じゃないか? 体調がよくないと感じる時には嫌な夢を見るもんだろ」
 アキナは天井を見て「そういうのじゃないんだよね」とつぶやいた。
「そんなに気になる夢なのか? どんな夢?」
「どんな夢か覚えていないこともあるし、覚えていても内容はバラバラなんだけど、なんていうかなぁ、目が覚めた時の嫌な感じが同じなの」
 夢から覚める感覚を思い出したんだろうか、アキナは軽く顔をしかめて、ぶるぶるっと震えた。
「あー、あんまりしゃべんな。もう俺行くわ。これ以上いたらアキナを疲れさせるだけだ」
 アキナの頭をぽんぽんと軽く叩くようになでて、じゃあな、って手を振った。
 それまでは「うん、がんばるよ」「おぅ、頑張れよ」というやりとりが続いたのに、今日は何もなかった。
 妹の話は気になったけれど、これ以上話してたら何だか雰囲気が悪くなりそうで、後ろ髪をひかれながらも逃げるような気持ちで俺は病室を出た。
 そして、それがアキナとの最後の別れになってしまった。
 その日の夜遅く。病院から電話があった。
 電話のベルの音で、なんとなくそれが悪い報せだと、俺は察してしまった。その予測通り、アキナの容体が急変して亡くなったという連絡だった。
 その日その時から、にわかに家があわただしくなった。通夜、葬式を含めての弔事はどうしてか、少し日を置いて行われることになった。
 不思議なもので、アキナがいなくなったというのに悲しみとか寂しさとかを感じることはほとんどなかった。特に死ぬまでの一カ月はアキナはほとんど家にいなかったから、あいつがいない家に慣れてしまっていたのかもしれない。
 後から知ったことだけれど、弔事が遅くなったのは病院から病理解剖の申し出があったかららしかった。
 アキナのことで衝突を繰り返してた両親は、またそのことでもめていたみたいだ。
 結局、解剖してもアキナの病気の原因は判らなかったみたいだ。母は、だから無駄だと言ったんだと泣き崩れていた。そんな無駄なことでアキナの体に傷をつけるなんてと号泣していた。
 確かに、原因が判らない病気で苦しんだ後に体まで切られちゃかわいそうだ、と俺も思った。でも解剖することで病因が判って、他の人の役に立てるかもしれなかったという父の理論的な考えにも全面的に反対はしなかった。
 通夜や葬式には、雨にもかかわらずアキナの友達がたくさんやってきた。
 同級生だったからと義理でやってくる子はいなかった。みんなアキナの回復を願っていたと目を泣き腫らしている。どれだけアキナがみんなと仲良くやっていたのかが改めてよくわかった。
 愛されていたんだな、アキナ。この数カ月、辛かっただろうけど、せめてそれが救いなのかもしれない。
 弔事が終わって、家族がバラバラになってしまった。アキナの治療や解剖のことで意見が衝突した両親は、それから修復することはなかった。どっちも結局父が押し切った形になって母はそれに納得していない。まだ俺がいるから離婚はしないけど二人の気持ちは離れてしまっていたみたいだ。
 母は暇さえあれば遺影を眺めて涙しているし、父は会社にいる時間が多くなった。
 いままで娘のことで穴をあけがちだった仕事の埋め合わせをするためだと父は言うが、もしかすると母と顔をあわせるのが嫌だからだろうかと思わなくもない。でもそれを口にするのは二人の関係をさらに悪くするだけだからやめておいた。
 家の中の空気が冷たい。アキナが病気になってから彼女がつなげた家族の絆が、勢いよくはじけ飛んだあとには、寒々とした雰囲気が残った。
 それがよけいに、アキナが死んでしまったのだと印象付けて、弔事の時には感じなかった寂しさや悲しさがやってきた。
 それからは、アキナがいなくなった日常、というものに少しずつ慣れて行く日々を過ごした。
 あれだけ元気だったあいつが弱って行くのを心配するというストレスのようなものから解放されて、自分でも酷いと思うけどほっとしている部分もあった。けれど空虚な感じの方が断然大きくて、そのせいか「元々無口だったハルトが余計に無口になった」と友人らは言う。
 ハルトとアキナ、対の季節を表す兄妹だった俺らだった。片方がいなくなって、これから先、あいつが死んでしまった夏が悲しい季節になりそうだ。

 夏休みが終わって、二学期が始まる。両親の仲は相変わらずで、あんまり家にはいたくない気分だから学校が始まってくれたのはありがたかった。俺は学校が終わってもできるだけ友達と外に出て過ごした。家にいる時も食事以外は自分の部屋にこもることが増えた。
 その日も、部屋で時間を持て余していた。何気なくインターネットを見ていたら、気になる記事があった。
 俳優の誰それが、体調不良で映画の主役を降板したってニュースだ。別に普通の芸能記事なら興味ないし見向きもしないが、見出しが「謎の体調不良、ストレスか」だったからどきっとして詳細を読んだ。
 記事によるとその俳優は数か月前までは普通に仕事もしていた元気だったが、映画撮影が始まる頃から日に日に体調が悪くなってきたという。気力で仕事をしていたが、ついに今日、倒れてしまったので病院に運ばれ、検査の結果、内臓の働きが弱っているので即入院となったんだとか。
 暑い室内の空気が一気に冷えた気がした。嫌な汗が背中を伝う。
 これって、妹と同じじゃないか。もしかして、この人と妹にもっと共通点があれば原因も判るかもしれない。
 そう思った俺は、その俳優が開いているブログへと飛んだ。後から考えれば、この時点で病因が判っても仕方のないことなのに、その時はそんなことは考えもしなかった。
 一番上の記事は病院から書いたものらしい。映画を降板することになったという報告と、とても残念だけれど今は病気療養に努めて早く元気になりたいと思う、と書かれてあった。
 他に何か書かれてないかと記事をさかのぼって読んでみる。タイトルに体調不良と書かれてある記事をクリックした。

『体調不良だけど頑張ります』
 映画の撮影は順調です。このところちょっと体調不良気味だけれど、ここはひとつ、気を引き締めて仕事に臨みたいと思います。
 この映画には出演したいと思っていたさなかに得られた役ですから、全力で行きますよ!

 この記事の次は一週間ほど間が空いていた。

『悪い夢を見ると気分が↓ですよね』
 先日の記事にたくさんの励ましをありがとうございます! みなさんのコメントで元気が出ました♪
 なんだか悪い夢を見て気分がダウンしてしまいましたがこれで頑張れます。
 病は気からと言いますし、ここは夢のことなんか忘れて張り切っちゃいます。

 俳優のブログ記事に、マウスをクリックする手が震えた。
 悪い夢。
 アキナは言っていた。悪い夢を見ると体調が悪くなると。
 この俳優も体調不良の上に悪い夢を見ると言う。
 ただの偶然で片付けられることかもしれない。でも俺はなんとなく、本当に直感として、原因不明の病気と悪い夢は関連があるんじゃないかと思った。
 すぐに「悪い夢」と「体調不良」をキーワードにしてポータルサイトで検索をかけてみた。
 山のように出てくる記事。大抵が夢や体調不良をネタにブログに記事を書いているものだ。中には深刻そうなものもあるのでその記事を読んでみると、予想通り、原因不明の体調不良っぽいのが何件かあった。
 これでもまだ、体調不良と悪い夢は絶対的に結びついているとは言えない。
 それならばと、検索ワードに「原因」を加えてみた。
 すると、相変わらず体調不良を訴える記事がある中で、病院のお医者さんが書いたらしい記事が見つかった。
 大阪に住むお医者さんが開業した病院の案内ホームページの中で書いたものだった。

『疲れやストレスから体調を崩した場合、多くの場合は本人に原因の自覚がないまま体調不良が続くということもあります。疲れやすくなったり、悪い夢を見続けるなどすると、それがさらなるストレスとなり体に負担がかかることも。「風邪でもないのに疲れがとれない」「悪い夢をよく見るようになった」など、気になることがありましたらためらわず受診を』

 いろんな病気について書いてあるみたいだが、この部分が検索にひっかかったんだろう。
 開業医は患者がいないと稼ぎがないから、ちょっとの体調不良でも来てもらおう、という宣伝文句にも見えなくはない。
 病気に関する記事のページから、トップページに戻ってみた。
 牧野医院という病院らしい。
 病院のクチコミ評判を調べてみた。結構いい。一人当たりの患者にかける時間が少し長いので待ち時間も長くなるが、先生が親身になって話を聞いてくれるから安心する、というのだ。
 金儲けを考えるなら患者にかける時間は少なくして一人でも多く診れる方がいい。俺のさっきの考えは邪推だったようだ。
 さらに目を引いたのは、悪い夢を続けてみていたのが、先生に相談してから見なくなった、というコメントもある。
 ……この人の話を聞いてみたくなった。
 メールで妹のことを聞いたら、何か答えてくれるだろうか。評判のいい先生みたいだから何かコメントはくれるかも。
 アキナの死因に近づけるかもしれない。なんだかちょっと興奮してきた。
 息を弾ませてメールの文章を考え始めて、何から書けばいいのかちょっと悩む。知らない人と話すのもかなり緊張するけど文章書くのも得意じゃない。
 妹の病状と、彼女が死んでしまったこと、その原因を調べるためにインターネットでいろいろと検索してわき上がった疑問なんかを書きながら、ふと冷静になる瞬間もあった。
 アキナはもういないのだから、今さらこんなことをしても自己満足じゃないか、って。
 でも、何もしないで重苦しい雰囲気の家にいたくなかった。もやもやとした気持ちをなんとか紛らわせたい。
 自己満足でもいいじゃないか、前へ進むためだ、なんてもっともらしいいいわけを心の中でつぶやきながら、牧野先生へのメールを送信した。

 先生からの返信は、次の日に届いていた。
 一体どんなことが書かれているのかと緊張しながら本文を開いた。

『ハルト様
 このたびはメールをありがとうございます。
 妹様の件は残念でした。お悔やみ申し上げます。
 さて、お問い合わせの体調不良と悪い夢の関連性の件ですが、一般的な答えとしては、体調不良が長引くことにより精神のバランスが失われ、無意識的に病状や将来を悲観するが故に悪い夢を見てしまっていた、と見るのが妥当です。
 しかし、妹様の病気は原因不明とのことで、メールの文を拝見いたしまして、少し気になる点もございます。
 もしもハルト様が私の推測でも構わないので聞いてみたいということであれば、直接お会いしてお話しさせていただきますがいかがでしょうか。
 プライベートに関わることもありますのでメールでのやりとりは不向きかと思います。
 もちろん、医者と患者ではなく個人的なご相談と回答ということですので診察料などは一切いただきません。交通費などもこちらで負担させていただきます』

 どくん、と心臓がはねた。
 やっぱり牧野先生は何か知っていそうだ。
 先生の話は聞いてみたいけど……。
 ただで、というか交通費まで払うというのは、ちょっとうまい話すぎないか? なんか変な組織みたいなところに勧誘とか強制入会とかさせられたり、高いお札とか壺とか押しつけられたりしないだろうか。
 どうしようか。
 メールには、先生の連絡先の電話番号が書いてある。牧野医院の場所はホームページにしっかりと書かれてあるし、言ってみれば相手は素性をさらけ出してるようなもんだ。もし何か悪いことを仕掛けてきたら個人情報をばらすって逆に切り返せば逃げられるかな。
 でもそれだけじゃ弱い気もする。
 よし、誰かに「牧野先生のところに話聞きに行ってくる」って打ち明けておいて、もしも俺が戻らないなら警察とかに連絡してもらうように頼んでおいてみよう。
 誰に話そうか。親? いや、やめとけって言われるかもしれないし、特に母親とはあんまりそういう話をしたくない。ヒステリックになったりして泣かれると困る。
 友達何人かに軽く事情を説明しておこう。
 頼みごとを守ってくれそうで、他人にほいほいと軽くこんな話をしなさそうなヤツをチョイスして事情をメールで伝えておいて、俺は次の先生の休みに訪ねることにした。

 次の日曜日、あらかじめ連絡を取って牧野先生に会うことになった。
 メールで話せない、先生が気になることって何だろう。アキナの死因に関わることなんだろうけれど、あれだけのメール文で何かが判ったんだろうか。
 真相を知りたいという心と、期待してもろくなことにならないかもしれないという猜疑心がごちゃごちゃとしているまま、スマートフォンのGPS機能を頼りに牧野医院を探す。
 住宅街の中に、病院は溶け込むように建っていた。無茶苦茶綺麗というわけでもないけど、ボロというには気の毒な建物だ。
 病院と繋がっている家の方に回って、インターフォンのベルを鳴らした。
『はい』
 短く応えたのは女の人だ。
 記事を書いた先生は聡という名前だったから男の人だと思う。先生本人が応えてくれるもんだと思っていたから予想外の女の人の声にドキッとした。
「あ、あの。今日お約束してる高峰ハルトです」
 やっぱり初めての相手は緊張する。
『あぁ、はい。ちょっと待ってくださいね』
 女の人の声は優しく俺をこの場にとどめた。
 少しして出てきたのは、四十歳近いぐらいの男の人だ。優しそうな顔で微笑んで頭を下げた。
「はじめまして。牧野聡です。どうぞおあがりください」
 この人が牧野先生だ。緊張感が一気に跳ね上がって挨拶するのも忘れて、俺は門を開けて中に入った。
 通されたのはリビングだ。ソファにどうぞと言われてすとんと腰を下ろす。
 落ち着かない。完全にアウェー状態だ。もじもじそわそわするのを必死に抑えて押し黙ってる俺の正面に先生は優しい笑顔のまま座った。
「緊張、してる? そりゃそうかな。メールで初めて連絡を取った相手がいきなり会って話がしたいなんて言いだしたら警戒もするよね。訳のわからない商品を強引に勧められるかもしれないとか、宗教に勧誘されたりしてとか思ってしまっても仕方ないぐらいだよ」
「はい、あぁ、いえ」
 ここに来るまでの心配をそのまま言い当てられて思わず即うなずいてしまってから、慌てて首を振った。先生は「やっぱりそう思ってたんだ」と言わんばかりの笑い声をあげた。
「でもこれから僕が話すことは下手したら宗教よりもたちの悪い話かもしれない。こいつ頭がおかしいんじゃないかって思われても不思議じゃないような話だし」
 先生は笑顔をひっこめて言った。突然核心に飛びこまれて緩みかけた緊張がまたぎゅっと心を掴んでひねる。
「ハルトくんは『夢魔』という言葉を知っているかな」
 本当に突拍子もない質問が飛んできた。
「むまって、夢と、魔法の魔の、夢魔ですか?」
 俺が問い返すと牧野先生はうなずいた。
 夢魔か。思いつくのと言ったら……。
「ゲームとかに出てくる、夢を操ったりエロいことをする魔物、みたいな感じですか」
 ついぽろっとエロいことなんて言葉が漏れちゃったものだから、先生はふふっと笑った。
「そう、その夢魔だよ。元々は宗教上で言うところの悪魔の一種で、ゲームなんかに出てくるのはそれを参考にしてつくられたものだね。少なくとも今の日本では空想上の物と扱って間違いじゃない」
 先生は宗教の中での夢魔について教えてくれた。寝ている人のところにやってきてみだらな行為、つまりエロいことをする悪魔と言われているとか、実情としては不倫なんかで授かってはいけない子供ができてしまった場合に「夢魔の仕業だ」と責任を転嫁したりということに使われるとか、話の内容にはちょっと興味はあったけれど、今日この話をしたいために俺に会ってるとは思えない。この話のどこがアキナが死んだことについて繋がってくるんだろう。
「浮気のいいわけとかじゃない限り、この夢魔そのものを実際に見たと言う人は、まず日本にはいないだろう。宗教上で想定されている悪魔だからね。世界中探しまわったら信仰あつい人の中で「自分は見た」と言う人はいるかもしれないけど。ところで――」
 先生はそこでひとつ深呼吸をした。
「この話とは違うけれど『夢魔』と呼ばれるものは実際に存在する、と言ったら、君はどう思う?」
 ……夢魔が実際にいる?
 夢魔の話が出てきた時も驚いたけど、それが実際にいるとしたらなんて、まさに想定外だ。
「どう、って言われても……」
 続きの言葉が出てこない。
 ただ、この話の流れからして、この次に、その実際にいるという夢魔がアキナの病気に関わっていたって言われるのはなんとなく判る。
 やっぱり新手の宗教とか? その夢魔に対抗するのにお布施をくださいとか言いだしたりしないだろうか。
「おそらく妹さんは、夢魔による浸食で亡くなられたのだと、僕は思うよ。最近、またちょと増えてきていてね……。手は尽くしているつもりなのだけれど」
 ほらきた。気をつけないと。最初に「変だと思われるかもしれない」なんてけん制しておいてその実その通り、ってパターンか。
「あ、ごめんごめん。いきなり話が飛んでしまって。まずは夢魔がどんなものかの話だけれど」
 先生は熱心に夢魔の説明を始めた。
 夢魔は人の生命力を奪い取る魔物で、その名前の通り夢の中にいる。夢魔がどうやって生まれたのか、まだはっきりと解明されていないけれど、多分人のマイナスの感情が生み出すのではないかと言われているらしい。力の強い夢魔だと知能もあって、獲物を弱らせすぎないようにして長い間浸食しているらしいけれど、低級の夢魔は獲物が死んでしまうまで浸食する。アキナを狙ったのは低級の夢魔じゃないかって話だ。
 夢魔はすごく昔からいて、それに気付いた人が集まって夢魔に対抗する力を手に入れた人が「狩人」として戦っているとか。
「この話を信じる信じないはハルトくん次第だよ。ただ、どちらにしてもあまり他の人には話さないでもらえるとありがたいかな」
 先生はそこで言葉を切った。話は終わりということだろうか。信じる信じないは自由なんて言うってことは俺の疑いの気持ちをくみ取ってたんだろうか。
 どうせ勧誘か何かの目的だろうと思ってたから話半分に聞いていた。本当はもっといろいろなことを話していたのに覚えてない。
 ちょっと申し訳ないことをしたかもしれない。
「どうして、その話を俺に? さっき言ってましたよね。頭が変だって思われても仕方ないって。実際、いきなりこんな話されて、俺かなりビビってます」
「メールの文章で判るほど、君が妹さんの死因をとても知りたがっていたし、あの俳優のことにも気付いたから。君になら話しても大丈夫なんじゃないかな、って思ったんだよ」
 先生は、優しそうな笑みを浮かべた。
 俳優って、体調不良で映画の役を下ろされた、あの。それじゃ、それも夢魔の仕業ってことなのか。
 判らない。先生の話を信じていいのか。信じてどうなるのか、否定してどうなるのか。
 俺が聞きたかったのはこんな非現実的なことじゃなかった。もっと化学的や医学的な病因だ。
 なんだか悔しいような悲しいような変な気分だ。
「俺は――」
 とっさに、衝動的に口を開きかけた時。
「お父さん。今夜は夢のお仕事ある?」
 勢いよく居間のドアが開いて、ショートカットでボーイッシュな服装の女の子が飛び込んできた。
 アキナにそっくりだ。俺はその子をじっと見た。
 いや、よく見たらそんなに似ていない。でも雰囲気が似ている。アキナも病気になる前はこんなに明るくて元気で、笑顔ばっかりだった。
 その子は、俺を見ると、あっと驚いた顔になって気まずそうに父親を見た。
「愛良。今お客様が来ているから、後でね」
「うん、ごめんね」
 あいら、と呼ばれた女の子は俺にもちょこんと頭を下げて部屋を出て行こうとした。
 この子はさっき、夢のお仕事と言った。すごく自然に。
「あ、あのさ。夢のお仕事って、夢魔退治のこと?」
 俺は愛良って子の背中に問いかけた。
 その子は驚いた顔で振り返って、それから、うん、と笑ってうなずいた。
「よかった。夢のお仕事なんて言って変な子だって思われなくて」
 彼女は心底ほっとしたような顔でそう言うと、速足で部屋を出て行った。
 あの子にとっては、夢魔退治は現実なんだな。けれどよその人がいる前では話してはいけないとかいいつけられているのかもしれない。「ごめんね」は客が来ているのにずかずか入ってきてごめんね、という意味もあるだろうけど、夢魔に関わることを人前で口走ってしまってごめんねという意味もあったのかもしれない。
 夢魔の話をしていて、俺がどうしていいのかってタイミングでやってきて夢魔退治の話を切りだすなんて都合がよすぎるとも思うけれど、あの子の顔は、目は、嘘なんてついてないまっすぐなものだった。
「先生。今日はありがとうございました。俺、帰ります」
「そう? いきなりこんな話で期待はずれだったかもしれないけれど……」
 牧野先生はちょっと困ったような顔をして俺を見ている。俺が話をどう受け取ったのか心配してるって顔だと思う。
 正直言って、かなり驚いたし今も驚いてるし、信じたくない気持もあるけれど。
 きっと現実なんだな。夢魔の話も、アキナが夢魔にやられたことも。
 まだ気持ちはもやもやしたままだけれど、何も判らないよりは、何かが判った今の方が、少しだけすっきりした思いもある。
 まず俺はしっかりと自分の気持ちを整理しないといけない。
 それからどうするのかは、その時考えよう。
 俺はもう一度お礼を言って、牧野先生と別れた。



 そして、アキナが死んでから一年経って、俺は今ここにいる。
 夢魔を狩る「狩人」としての初陣だ。
 あれからもう一度、牧野先生に会って、夢魔と戦う狩人や、狩人を助ける夢見(ゆめみ)の話も詳しく聞いた。
 夢魔。アキナを殺した魔物。人のマイナスの感情から生まれると言われている、人の生命力をすする化け物。
 その存在を肯定した時、俺は自分の無力さを悔やんだ。
 アキナともっと話をしていれば、もしかしたらもっと早くに気づいて、アキナを助けられたかもしれない。
 何もせずにアキナを死なせてしまった償い、とはいかないだろうけど、俺は俺にできることをする。
 両親にも、友達にも、誰にも何もうちあけずに俺は狩人になった。
 すべてが夢ならよかったのに。アキナが死んだことも、夢魔なんてものの話も。
 こんな思いをする人が減るように、精一杯戦おう。
 俺を夢の世界へといざなってくれる夢見の合図にうなずいて、虹色のトンネルへと飛び込んだ。

(了)


 作品を気に入っていただけたら拍手をください。励みになります。

あとがき

 この作品は、サイト開設13周年の記念リクエストで書き上げました。いただいたお題は「いざ! なにかを始める話」です。
 次の連載として構想中の「すべては夢のものがたり」のスピンオフ(番外編)にあたります。まだ連載してないのにスピンオフの方を先にアップするの何ですが(笑)、作品の前宣伝の一つということで。
 先に企画用でアップしてある愛良の作品がコミカルなので、ハルトの方はちょっと重めにしてみました。
 いずれ(きっと随分先になると思いますが)愛良とハルトが本編で出会って、いろいろと影響しあう予定です。

 かみたかさちさん、リクエストありがとうございました。
 それでは、また次の作品で。

2013年 5月10日 脱稿
2010年 5月20日 編集

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