プロポーズ
「ごめん、急に呼び出したりして。」 「いいよ、そんなこと。でも、何、どうしたの?」 彼女は笑いながら席に着いた。ピンクの、淡いブラウスの袖がひらりと揺れて、ちょっとカールのかかった髪が、緩やかに踊った。 「突然で驚くかもしれないけど・・・」 そう、今日俺は、大切なことを彼女に伝えたかった。 「今日・・・」 「え?」 「何の日か、憶えてる?」 「忘れるわけないじゃない。今日は、洋平と私が出会った日、だよね?」 「そう、一度目の記念日・・・」 「一度目の記念日って・・・相変わらずロマンチストだね、洋平。」 「ダメ?」 「ううん・・・」 あれは・・・高校に入学して間もない日。夕日が沈みかけたグランドで君を見かけた。トラックを何周も何周も、ただ走る君に見惚れてしまった。呆然と立ち尽くし君を見つめた。 「・・・天使だ・・・」 それから何日も何日も、俺はグランド脇の木の下で君を見つめた。そんな俺のことを不思議に思ったんだろう。君は走るのを止めて声を掛けてきたね。 「何、ずっと見てるけど?」 「あ、ああ・・・君の走る姿、綺麗だったから・・・迷惑だった?」 「そんなことないけど・・・変な人。」 笑顔が可愛い、素直に思った。本当に可愛い。 「あ、あの!」 「何?」 「君は何組?」 「三組、だけど。それがどうしたの?」 「いや、ありがとう。」 その瞬間、君は笑い出した、俺の心を鷲掴みにする笑顔で。 「やっぱり変な人。」 「え?」 「普通、名前を先に聞かない?」 「ああ、そうかも・・・」 「聞く?」 「うん、知りたい。」 「私の名前は・・・」 「うん・・・」 「明日、ね。」 「えっ?」 「また明日、ここに来て。いい?」 「う、うん。」 君のペースにすっかり巻き込まれて、俺はただただ頷くしかなかったっけ。 翌日、君はやっぱりトラックを走っていた。君が県内でも有力な長距離選手だと、俺は知らずにいたんだ。夕日に浮かぶその姿は、やっぱり綺麗だった。 「来たんだ。」 「うん。君のこと知りたいから。」 「どうして?」 「どうしてって・・・」 「私は宮野五月。君は六組の森下君。だよね?」 「う、うん・・・」 「あのね、聞いていい?人が走ってるとこ見てて楽しいの?」 「他の人なら、楽しくないかな。君の・・・」 「えっ?」 「君の走る姿、綺麗だし、それに・・・」 「それに、何?」 「俺・・・」 その後の言葉が言えないまま、君の戸惑った顔見たくなくて、俺は逃げるようにその場を走り去ったよね。今ならそんなこと絶対しないけど、女の子とどう接していいのかわからなかった当時の俺には、君は眩し過ぎたんだ。 「ああ、もうダメだ・・・完全に嫌われた・・・」 そう思っていた。だって、君から逃げるようにあの場を走り去ったんだ、仕方ない。俺の初恋は、見事に玉砕した。と、思っていた。 それから数日経った雨の午後・・・ 「森下!」 「あ?何?」 「三組の宮野が呼んでるぞ!」 「え、えっ!」 何で、どうして・・・どうして俺に会いに来たんだ・・・だってあの日俺は、しっかり嫌われたはずなのに・・・ 「あ、あの・・・どうしたの?」 「話したいことあるの。昼休み、フェンス裏に来てくれない?」 「えっ、ああ・・・いいよ。」 「待ってるから!絶対来てよ!」 「う、うん・・・」 気のせいだろうか、君の頬が少しだけほんのり紅く染まっていたと思ったのは・・・ 授業中、先生の言葉も耳に入らず弁当も喉を通らず、昼休みに君との約束通り俺は、フェンス裏に急いだ。既に君はそこに佇んでいて・・・ 「あ、ああ、ごめん・・・待たせたね・・・」 「ううん、今来たとこだから。」 「は、話って何、かな・・・」 「あのね!」 「うん・・・」 毎日グランドの脇で、君の走る姿見つめている俺のこと、キモいって思ったんだよな。もう見ないでくれ、そう言いたかったんだよな・・・ごめん・・・ 「もし、迷惑じゃなかったら、その・・・」 「嫌だったよね、毎日じっと見られて・・・迷惑かけてごめんね。もう、グランド行かないから」 「そうじゃないよ!だから・・・」 「えっ、嫌じゃないの?」 「嫌なんて・・・凄く、嬉しかった。だから・・・」 「だから?」 「私と・・・付き合ってくれないかな?」 「・・・は?」 付き合う・・・それって・・・ 「えっ?」 「だから!私の彼氏になってって言ってんの!」 「嘘、冗談だよね・・・?だって君は・・・」 「もう・・・女の子に恥かかせないで!」 そう言うと君は、僕の頬にくちびるを寄せたんだ。 「・・・返事は?」 「お、お願いします・・・」 こうして俺達は恋人同士になったんだ。 付き合ってわかったこと。君は誰よりも繊細な努力家。勉強も走ることも一切手を抜かない。タイムがちょっと悪くなっただけで、いつもの倍走り込むし、テストの点数が低い時は必死で勉強していた。 「なぁ、五月。そんな無理してたら身体壊すぞ。」 「大丈夫だって。これでも体力には自信あるし、何より・・・」 「ん?」 「私には洋平がいる。」 「あ・・・へへ・・・」 「もう、ニヤケんな!」 「だって、嬉しいんだもん、そんな風に思ってもらえてて。」 「うん。」 「五月・・・」 「何?」 「愛してるよ・・・」 「私も・・・」 優しく抱き締め合い、俺達は初めてのキスをした・・・レモンの味はしなかったけど、五月が瞬間まで舐めていたのど飴の味がほんのりした・・・ 五月・・・俺はいつでも君の側にいるよ。いつでも君を想っているよ。君の笑顔を、必ず守るよ・・・ 高校時代の三年間多少の喧嘩もしたけど、それでも俺達は周囲が羨むほどの仲だった。毎日が楽しくて幸せで・・・そう、あの日まで・・・ そんな俺達を、神様が妬んだんだろう。いつものようにグランドを走っていた五月が大怪我をしたと、血相を変えた友達が俺を呼びに来た。学校帰りの小学生が遊んでいて手を滑らせたボールが、たまたまそこを走っていた五月の足元に転がって来たのだ。五月はボールを踏みバランスを崩したまま転んだ。誰が見ても一目で重症だとわかるくらい、五月の足は腫れ上がっていた。すぐさま救急車が呼ばれた。駆け付けた救急隊員が担架に五月を乗せた時、痛みに顔を歪めながら、それでも俺を安心させようと五月は必死に笑ってこう言った。 「そんな、泣きそうな顔するな・・・」 「だって、五月・・・」 「大丈夫、大したことないって!」 その時の俺には、五月を心配することしか、出来なかった・・・ 診断の結果・・・「後距腓靭帯及び踵腓靭帯断裂」 「手術?それって・・・」 「足を曲げ伸ばしするのに必要な靭帯の二箇所切れちゃったんだって。」 「ああ・・・でも、手術すれば治るんだろ?すぐ良くなるんだろう?」 「歩ける、程度には、ね・・・」 「それって・・・」 「もう、走れないってこと・・・」 「五月・・・」 「洋平、もう走れないんだって、私・・・どうしたらいい、もう・・・」 「泣きたいだけ泣けばいいよ、五月。俺が全部受け止めるから。五月の涙、俺が全部・・・」 そう言い終わる前に五月は俺にしがみつき、声を殺して泣いた。人は本当に哀しい時、声を張り上げては泣けないものなのだと、この時知った。 手術も無事終わり、懸命なリハビリの甲斐あって、普通に歩けるまでは回復した。だけど長距離選手として決まっていた推薦入学の話は流れた。 「そんな、洋平が落ち込んでどうするのよ!」 「いや、だって・・・俺が守ってやるって約束したのに、また俺・・・」 「これは不可抗力、誰のせいでもないんだから。起きてしまったことくよくよしててもしょうがない。」 「五月は、強いな。」 「強くなんかないよ、強くなんか・・・」 怪我をした日以来、一度も弱音を吐かなかった五月。涙を見せなかった五月が泣いた。俺はまた、五月の笑顔を守ってやれなかった。 「洋平。五月ちゃんはどうしてる、元気になったのか?」 「うん。」 「大変な目に遭ったわよね。でも、あの子強いから。」 「うん、本当に強いよ。」 「大丈夫なのか、洋平。」 「何が?」 「そんな五月ちゃん、お前、守れるのか?」 「守るよ。約束したから。」 あれから十年・・・ 五月はもう一つの夢だったケアマネージャーになるための専門学校へ進学し、今はケアマネージャーとして多忙な毎日を送っている。季節の変わり目、怪我の痕が痛むらしいが、相変わらず弱音は吐かない。俺は大学卒業後地元の市役所に就職した。取得した臨床心理士の資格を生かし、各学校を定期的に巡回し、傷付いた子供達の心のケアをしている。 お互い忙しくてなかなか会えない。それでも、初めて会ったあの日から少しも変わることなく、俺達は信じあい支え合ってきた。だから、もういいよな・・・ 「五月・・・」 俺は小さな箱を五月の目の前に滑らせた。 「洋平、これ・・・開けていい?」 「もちろん。」 五月は少し震える手で、リボンを解き箱を開けた。 「・・・綺麗。私の指には勿体ないな。」 「給料の三か月分には、少し届かなかったけど。」 「ありがとう。凄く嬉しい。」 「受け取って、くれる?」 「うん・・・」 「俺と、結婚して下さい。」 「はい・・・」 「五月、二度も泣かせてごめんな。でも、もう泣かせない。この先、どんな辛いことがあっても、俺が五月守るから。約束するから。」 「洋平・・・」 「初めてグランドで五月見た時から、俺の天使は五月だけなんだ。俺の心の真ん中にいるのは五月だけだから。」 「私だって・・・洋平だけだよ・・・辛い時、いつも支えてくれて、ありがとう・・・」 「今日、俺達の二度目の記念日にしていい?」 「・・・何度、記念日作るの?」 「五月の笑顔の数だけ。」 「じゃあ、たくさん笑わせてね。」 そう言いながら五月は、大粒の涙を零した。 「うん。」 「約束、だよ・・・」 今日五月は、俺だけの天使になった・・・ (了) |