届かぬ後ろ姿

 扉を開けたら、部屋は真っ暗だった。
 直感で、あいつはもうここには来ないつもりだなって、察した。
 こんなの、ちょっと前なら当たり前だった。そうだ、あいつに会う前に戻っただけだ。
 部屋に入って電気をつけて、テーブルの上に鍵を見つけた。あいつに渡したやつだ。
 他には何もない。手紙もないし、念のためにチェックした私用の携帯にもメッセージはない。
 本当に怒ってキレちまったんだな。
 ……正直言って、なんかほっとした。好きだけど、うるさいって思うことが多かったから。
 何時に帰るの? さっきの電話誰から? 休みの日くらいデートしようよ。
 俺が忙しいの知ってるのに、なんでそこまでかまってほしがるんだよ。俺が時間作って相手してるのも知ってるだろうに、って不満もあった。
『章彦は精一杯してるつもりなんだろうけど、何かが足りないんだよ』
 なんて言われたこともあったっけな。
 結局あいつが足りないって言ってた「何か」は判らずじまいだったけれど。
 だから愛想つかしたのかもしれない。忙しいを理由に避けてる所も、まったくなかったとはいえないし。
 まぁ、でも、それもこれも終わりだ。明日からはまた、仕事のことだけ考えていればいい日が戻ってくる。
 今の俺に、「部屋の合鍵を渡すくらい親密な彼女」という存在は重かっただけだったんだ。

 次の日からも、何も変わらない。
 夜遅くに部屋に帰ってきてあいつがいるのかいないのか、いたら「遅い!」とか言われるのかって心配しなくていい。
 ちょっと寂しいけれど、気楽だ。
 考えてみたら、あいつがこの部屋で何してたかなんて、覚えてない。
 あいつと付き合って、どれぐらいだっけ。鍵を渡したのは一か月ぐらい前ってのは覚えてるけど。
 それぐらいの価値だったんだな。
 ……けれど、なんだろう。「何か」が足りない。
 誰もいない部屋に帰ってくるのが、なんだか寂しく感じてくる。
 まだまだ寒い日が続くからな。人肌恋しくなってるだけなんだろう。
 彼女がいなくなってすぐのころには思い出せなかった、台所でコーヒーを淹れる姿を、ふと思い出した。
 お仕事お疲れ様、って笑ってたな。
 思い出の彼女はその笑顔を残したまま、すぅっと消えて、そこには誰もいない台所の寒々しいいつもの光景が残るのみ。
 こんなこと、思いだしても仕方のないことじゃないか。俺はあったまるためにコーヒーを淹れた。

 イライラする。落ち着かない。
 仕事で、上司を車に乗せて運転している最中も、ついハンドルさばきが荒くなる。
 これじゃダメだと、信号待ちの時にそっと大きく深呼吸する。
「何かあったのか?」
 助手席の上司が尋ねてくる。
「あ、いえ。すみません。ここしばらく、あまり眠れてないので。気をつけます」
 眠れていないのは事実だ。仕事が多忙を極めるのと、ふと心に浮かんでしまうあいつの幻影をどう振り払うのかに頭を悩ませてしまって。
「あまり無理するなよ。抱えきれないなら話してくれていいから。――あ、信号替わったよ」
 あまり表情や口調に普段との変化はないけれど、すごく気遣われているのが判る。
 俺以上に忙しい人なのに、俺のことで、しかもカノジョと別れたなんてしょうもないことで煩わせるわけにはいかない。
 俺は運転に集中しようと、フロントガラスを睨むように見つめた。
 ――あいつだ!
 左手の歩道を歩いているあいつを見つけた。人の波にもまれながら、肩を少し落としているような感じで、いつも好んで着ている藍色のワンピースのあいつがいた。
「黒崎君! 前!」
 隣から、上司の緊迫した声が耳に突き刺さった。
 はっとして前を見る。いつの間にか車間距離が詰まっていて、前のライトバンのリアゲートが迫って来ている。
 慌ててブレーキを踏んだ。なんとか追突は免れたが、もし上司が声をかけてくれなかったら間違いなくぶつかっていた。
「……すみません」
 どっと噴き出た冷や汗を袖で拭って、隣の上司に詫びる。
「疲れてるのか? 運転替わろうか」
「いえ、大丈夫です。すみません」
 もう一度詫びながら、つい、歩道を見てしまう。
 さっきの女性を見つけたが、彼女じゃなかった。
 胸が、心もとなくざわめいた。
 ……なにを残念がっているんだ。もうどうでもいいじゃないか。
 いくらこっちが忙しかったからって、何も言わずに鍵だけおいていなくなっちまうヤツなんて、元々俺にはあわなかったんだ。
 あいつがいなくなってすぐは、きれいさっぱり忘れてただろう。今さら未練がましく思い出すなんて、ばからしい。
 それに今はそれどころじゃない。
 俺は、今度こそ運転に全神経を注いだ。もう二度とあんな危険なことにはならないように。

 自己嫌悪な気分で部屋に帰った。
 結局、あれからはきちんと仕事に集中して、上司もそれ以上言及してくることはなかった。
 けれど、きっと気づかれている。俺に「何か」があって、俺がそれをすごく気にしているのだということは。
 あの人は、同僚や部下に対してすごく目配りのできる人だ。俺が入社して三年だけど、あの人のおかげで今の俺があると言ってもいいぐらいお世話になっている。
 周りとなかなか打ち解けることがなかった、それでいいと思っていた俺を、部署のみんなの話に入れてくれた人だ。カノジョができるぐらいの余裕を持ったのも、あの人のおかげって言っていいと思う。
 寒い部屋のベッドにぽつんと座って、そのまま後ろに倒れ込む。
『お仕事お疲れ様』
 彼女が微笑む顔がふと浮かぶ。
 章彦、と俺の名を呼ぶあいつの笑顔が、懐かしい。
 考えてみたら身内以外で初めて俺を呼び捨てにした人だったな。
 今頃どこで何しているのか。
 本当はその気になればあいつのいどころなんてすぐに探しだすことができる。
 探して、会って、俺が悪かった、もう一度付き合いたい、って言えば、この何かをなくして空虚になっている心を産めることができるんだろうか?
 いや、きっとあいつはもう俺とよりを戻す気はないだろう。今までだって何度か喧嘩をしてやりなおしてきた。それなのに今回は何も言わずに出て行った。どれだけ怒ってるか、傷ついてるかの証拠だ。
 俺にはもう、あいつの姿を追う資格はないんだ。
 今さらながらに、あいつにはもう手が届かなくなっちまったと、自覚した。
 そして初めて、後悔の念が胸をつく。遅すぎたよ、何もかも。
 本当に忘れなきゃ。いつまでも未練たらしく思ってちゃ、俺自身のためにならないし、仕事でミスをして迷惑をかけるわけにもいかない。せっかく職場でも肩ひじ張らずに過ごせるようになってきたところなんだから。
 俺は起き上がって、あいつが置いて行った鍵を机の引き出しから出してきた。
 いろんな――あいつにとっちゃ、最後の方はあまりいいものではなかっただろうけど――思い出の詰まった鍵をじっと見つめて、あいつとの思い出を浮かべる。
 ありがとう、ごめん、さようなら。
 いろんな思いを込めて、ゴミ箱に放り投げた。
 くるくると回転しながら、小さな鍵は綺麗な弧を描いてゴミ箱の中に吸い込まれ、乾いた音を立てた。

(了)

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あとがき
 この作品は「音楽をお題に小説を書く企画」のために書きあげたものです。
 お題曲は B'zの「それでも君には戻れない」です。

 主人公の名前を見てお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、同企画の「花散る路で」に出てきた章彦です。
 「花散る路で」は章彦が16歳の頃の話でしたが、今回は務めて3年あたりと言う設定なので、21歳ごろです。
 「摩天楼の翳」とも関連しているのですが、そちらの本筋にはあまり絡ませずに書きました。
 章彦の話はこの企画であと1本、案があるのでまた書いてみたいと思います。

 それでは次の作品で。

 2013年 3月23日
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