「ねぇお兄ちゃん」 「その呼び方、もうやめろよ。俺はいつまでおまえの幼馴染のお兄ちゃんなんだ」 「じゃあ、章彦さん」 「……ん。なんだ?」 すれ違う二人の会話が耳に飛び込んできた時、わたしは思わず振り返った。 花散る路で 日本の古都、京都にある、とある哲学者が愛したという路には、わたしのような観光客だけでなくて、地元の人らしき人達もたくさん訪れている。もっと静かな路を想像していたのにちょっと意外だったけれど、この満開の桜並木を見るとたくさんの人に愛されるのは納得できる。 小川の隣を走る路に沿って植えられた、たくさんの桜の木は、あふれんばかりの花を枝にたたえて、そよそよと吹く風に小刻みに揺れている。そのたびにはらはらと、薄紅色の花びらが舞い落ちる。 観光旅行のガイドブックに載っていた写真以上に素晴らしい光景に、わたしは感嘆の声を漏らした。 初めての一人旅。親を説得して、やって来た憧れの地だ。さすがにホテルに一人で泊まるのは無理だし京都にいる親せきの家に泊めてもらうことになってるから、完全な一人旅とはちょっと違うけれど、それはもうちょっと大人になってからだ。 進路のこととか、友達のこととか、いろいろと小さな悩みが重なって大きくなっちゃって、生活空間から離れてみたかった。そうしたら、いろんな事がいいふうに考えられるようになるかなって思って春休みを利用して旅行に出させてもらった。 高校生のわたしにとって、何もかもが新鮮で刺激的だった。開放感に包まれて、何かいいことがありそうな根拠のない予感までした。 少し強く風が吹いて、桜の枝がサワサワと耳に心地よい音をたてた。花びらがたくさん舞う。 わぁ……。すごく綺麗。 少し乱れた髪を手ぐしで整え、もう一度桜を見上げると、そのままゆっくりと足を進めた。 と、右肩が何かにぶつかった。結構大きな衝撃に「うわ」と驚きの声が口から洩れた。 横を見ると、二十代ぐらいの男の人が驚いた顔でこっちを見ている。 まずった。桜に見とれてぶつかっちゃったみたい。 金髪に近い茶髪で、腕に何個もアクセサリーつけてる。言っちゃ悪いけど、この場にはちょっと似つかわしくない感じ。ちょっと怖い感じもする。 「すみません。えっと、桜に見とれてて……」 ちょっとしどろもどろになってしまった。 「あ、いいよいいよ。大丈夫」 軽く答えられて、よかった、見かけより優しい人だったと思ったら。 「キミ、一人? あ、カメラ持ってるってことは観光やな。よかったらこの辺案内するよ」 ……えっと、これって、ナ、ナンパ? 一体わたしのどこを見てナンパしてきたのだろう? 髪は茶色に染めているけれど、化粧っ気はない。服装だって白のブラウスとジーパン、スニーカーでおしゃれってものじゃない。おまけに、ポシェットとカメラを肩から下げているという「いかにも観光客」な格好なのに。 「この近くに喫茶店あるし、そこ行ってこれからどこ行くか決めようか。な、いいやろ?」 男の人はなれなれしく肩を抱いてきた。 なんか、嫌。怖いし気持ち悪い。 笑った顔が、なんか品定めしてるみたいに見える。すぐに「そういうこと」を求めてくるっぽい。 「いえ、いいです。一人が好きなんです」 頭を下げて立ち去ろうとしたけれど、男の人に腕を強くつかまれてしまった。やっぱり怖い! 「ええやん。行こう。ぶつかった詫びや思うたら軽いもんやろ?」 腕を振り払おうとしたけれど、しっかりとつかまれているので離れない。 やだ。どうしよう。 「お詫びならさっき言いました。あなたもいいって言ってくれたでしょ。放してください」 涙声で訴えてみたけれど、男はお構いなし。 周りに人はいるのに、助けを求める視線に応えてくれる人はいない。こっちのやり取りに気づいていなさそうな人がほとんどで、心配そうな視線もいくつかあるけど、どうにかしてくれようとする人はいない。 お願い、誰か助けて! 「いいから来いや」 男が耳元ですごんだ。 びくっとなって、一瞬、体も思考も硬直した。どうしたらいいのか判らなくなって、わたしは引きずられるように連れられて行く。 どうしよう。どうしたらいいんだろう。大声出す? 暴れてみる? そこまでやったら逃げられる? 誰か助けてくれる? 「い……、嫌!」 でも喉から洩れたのは自分でも情けなくなるくらいの細い声。 こんなの、誰にも聞こえないかも。このままこの男に連れてかれて、わたしどうなっちゃうんだろう。 「やめとけよ」 頭の中の絶望を吹き飛ばすような、凛とした男の人の声が聞こえた。 見ると、わたしより少し年上ぐらいの男の人が近づいてくる。 薄い青色のシャツに、白のスラックスの彼は、ナンパ男よりも少し身長が高いけど、あんまり喧嘩とかには慣れてなさそうな感じがする。 でもこのさい誰でもいいから、この状況から助けて。 涙目のまま助けに来てくれた人を見た。彼はなんか冷静な感じ。その余裕っぽいのが嘘じゃないのを願うばかりだ。 「邪魔すんなよ」 ナンパ男がにらんでる。 「邪魔なんかじゃありません! 迷惑してます。助けてください」 思わず懇願。 「……迷惑だって言ってるよ」 「うるさい! おまえには関係ないやろ!」 ナンパ男は、腕を振り上げた。 殴られちゃう! 思わず目をつぶった。 「うわ、いててて!」 聞こえてきたのはナンパ男の悲鳴だった。 目を開けると、ナンパ男のパンチを手でがっちりと掴んでる男の人の姿が飛び込んできた。 すごい。見かけによらず、この人強いんだ。 暴力沙汰には無縁だけど、二人の状態と表情を見たら判る。 片手で掴まれているだけなのにナンパ男は顔中くしゃくしゃにして痛がってるし、手を掴んでる方はやっぱり冷静な顔だ。 救世主様が手を放すと、ナンパ男は舌打ちをして離れて行った。 よかった。助かった。 そう思うと、今さらのようにドキドキして冷や汗が出てきた。胸を押さえて何度か大きく呼吸すると落ち着いてきたけど、怖かった……。 「大丈夫か?」 涼やかな声で尋ねられた。 「はい。ありがとうございました」 わたしは肩からかけたポシェットとカメラの無事を確かめながらうなずいた。 彼の冷静な、というより無表情の顔を見つめる。改めて見てみると、目つきが鋭くて顔だけ見てたら怖そうな感じ。でも雰囲気が違う。怖いだけじゃなくて、別の何かが漂ってる。なんだか、こう、ミステリアスな感じ。 大恩人の彼は、わたしが大丈夫だと判るとそれでよかったらしくて、うなずいて立ち去ろうとした。 あ、行ってしまう。 胸がぎゅっと痛くなった。 胸元を押さえる手に、何かがそっと触れる。桜の花びらだ。 行ってほしくない。花びらが胸の中の本音を刺激した。 「あのっ、待って!」 思わず引き止める声が口をついた。 彼は振り返った。声には出していないけれど、表情が「何?」と問いかけてくるのが判る。 どうしよう。引き留めたけど、……どうしよう。 「え、えっと……。助けてくれて本当にありがとうございました」 「いいよ別に」 ぶっきらぼうに返されて、また胸がぎゅっとする。 「でも、本当に怖かったんです。命の恩人です」 「大げさだな」 彼が笑った。うわ、意外に、ちょっとかわいらしい笑顔。 「それで、その、よかったらお礼させてください」 笑顔に見とれて、気が付いたらそんなことを言っていた。恋愛小説じゃあるまいし。何言ってるんだろう、わたし。 でも彼はちょっと考えるようなそぶりをして、「じゃ、手伝ってもらおうかな」と呟いた。 手伝う? 何を? 不思議に思うわたしの目の前に、彼は脇に抱えていた封筒を見せた。 え、そんなの持ってたんだ。それ持ったままナンパ男を追っ払ってくれたんだ。すごい。かっこいい。 「判らない漢字、教えてほしい」 「漢字?」 「俺、あんまり漢字は読めないんだ」 漢字読めない? 頭悪そうには見えないし、まったくの日本人ふうの顔立ちだけれど、ひょっとしたらアジア系のどこかの国の人なのかな? ぶっきらぼうなのは、実は日本語を話し慣れてないから? 「うん。判った。わたしで読めるのなら」 助けてくれた人のお役にたてるならお安い御用だ。 「わたし、椎名ミサキです。この春で高校二年になります。よろしくです」 「俺は黒崎章彦。学校は、もう卒業した」 彼、黒崎さんが名乗った。 名前からして日本人だよね? どうして漢字読めないのかな。 怖そうで優しくて、それだけでもなさそうで、日本人なのに漢字があまり読めない。 黒崎さんのミステリアスさが増した。 わたし達は近くの喫茶店に腰を落ち着けた。フローリングもテーブルも椅子も濃い茶色のシックな店だ。店内が思っていたよりも薄暗かったから、窓際の席に座る。 わたしは紅茶とケーキのセットを、黒崎さんはコーヒーを注文した。 黒崎さんは、早速といわんばかりに、さっきの封筒から中身を出してくる。A4用紙が三枚だ。あと、一冊の小さいノートとペンも。 「判らないところがあったら教えてほしい」 それだけ言うと黙々と封筒の中身を読み、時々ノートをめくっている。 「えっと、これ」 黒崎さんが紙をこちらに向けてシャーペンで漢字を指した。 そこには“幾何学”の文字が。 「“きかがく”です」 黒崎さんは、メモ帳のほうに漢字を写してローマ字で「kikagaku」と読み仮名をつけた。また紙を読み始める。 多分、紙に書いてあるのは何かの論文っぽい。 メモ帳には漢字とローマ字の振り仮名、横文字で単語の下に何か書いてある。多分、単語の説明文だろう。 コーヒーが運ばれて来ても、黒崎さんは真剣そのものの表情で論文とにらめっこだ。 わたしのケーキセットも来たけれど、黒崎さんよりも先に手をつけるのも悪い気がして彼が読み終えるのを待つことにした。 飲み物を注ぐ音、食器が鳴る音、他のお客さんのささやき声、うるさくはないけど決して静かでもない喫茶店で、わたし達の周りだけが無音だ。 いや、時々紙がすれる音がする。論文の紙を見る黒崎さんの息使いがふと大きくなることもある。 一見、まったく無表情に見える彼だけど、ノートをくって目的の単語を見つけた時にかすかに口元が緩む。 感情をあまり表に出さない人なんだな。 「これ――。ん、食べとけよ」 次にわたしに目を向けた時に初めて、わたしがケーキセットに手をつけていないことに気付いたみたい。すごい集中力だ。 「なんだか先に食べるのが悪い気がして」 「そんなの気にしなくていいのに」 変な奴だというような顔をされた。一応気を使ったつもりなんだけど、ちょっとだけショックだな。 「そうおっしゃるなら、いただきます」 冷めてきた紅茶が渋く感じる。 黒崎さんはそれからも単語の読みをいくつか聞いてきた。 どれも、特別難しいという漢字ではないが、学校を卒業したなら読めるレベルだと思う。本当に謎の人だ。 三十分ほどして、わたしの目の前のケーキと紅茶がなくなる頃に、黒崎さんは論文を読み終えたようで封筒に戻した。 「ありがとう。はかどった」 黒崎さんがぺこりと頭を下げる。 「いえ。お役に立てたみたいでよかった」 黒崎さんもちょっと笑顔になると、冷えてしまったコーヒーに口をつける。 「黒崎さんはもしかして外国で暮らしていたんですか?」 彼がコーヒーを飲み終えるまでの世間話のつもりで、そんなふうに尋ねてみた。 「え? どうして?」 驚いた顔をされた。どうして知ってるんだ? と言われた気がした。予想的中なのかな。 「漢字が読めないから」 あの程度の、とは失礼だろうから言えなかった。 でもわたしの表情からか、口調からか、伝わったのかもしれない。黒崎さんは苦笑する。 「ああ。一年前までアメリカにいた。漢字をしっかり習う時間はあまりなかったから」 彼はそう言うと、腕時計に目を落とす。 「それじゃ俺は行くよ」 黒崎さんはコーヒーを一気に飲み干し、伝票を掴んで立ち上がった。 「あ、それじゃわたしも出ます」 彼の唐突な行動にわたしもあわてて立ち上がる。荷物をまとめて店の出口を見ると、黒崎さんがお会計を済ませているところだった。 喫茶店を出て、彼はまたあの路に戻っていく。 「あのー、黒崎さん、わたしのお茶代」 まったくわたしに見向きもしないで歩く黒崎さんに、おずおずとお金を差し出した。 「いいよ」彼は短く答えた。 「でも、それじゃ申し訳ないです。助けてもらって、お茶までご馳走になって……」 「学生だろ? 収入のないヤツから金は取らない」 きっぱりとした返事。彼のポリシーなのだろう。 なんてかっこいいんだろう。おごってもらったからってわけじゃないけど。 話すたびにいろんな面が見える黒崎さんに、俄然、興味がわいてきた。 もっと知りたい。もっと仲良くなりたい。 この桜の路で感じた「いいことがあるような予感」は、黒崎さんとの出会いだと思いたい。 「誰かと待ち合わせですか?」 ここで、彼女と、なんて言われたら一瞬で撃沈何だけど。 「あぁ、親父と」 よかった。撃沈回避。 「じゃあ、待ち合わせの場所までお供させてください」 わたしの申し出に、黒崎さんは「……ま、退屈せずに済むかな」って小さく呟いた。 聞こえてるよ。 退屈しのぎでもいい。思わずニンマリ。 「それじゃ行きましょうか」 きっと最高の笑顔でそう言ってたと思う。 それから約二十分。 桜並木の下を黒崎さんと話しながら歩いた。本当はもうちょっとゆっくり歩いて欲しかったけれど、お父さんと待ち合わせなら仕方ないよね。 話しながら、っていってもほとんどわたしが一方的にしゃべってる感じになっちゃったのが残念だけれど。 黒崎さんは日本の高校生活に興味を示したみたいなので、わたしの高校の話をした。 「わたしが通ってる高校、公立なんだけど校則はゆるいほうなの。制服もあるけど私服もOKなんて珍しいよね」 「珍しいのか?」 「うん。公立は結構厳しいよ。友達の高校は茶髪禁止とか、制服のスカートの裾の長さまで決まっているって」 「変なところに厳しいんだな」 「そうだよね。で、授業は五十分刻みで、日によって五時間だったり六時間だったり。土曜日は半日だけなの。わたしは音楽と国語が得意で、数学と体育は苦手。数学なんて勉強しなくても日常生活に困らないのに」 「確かにな」 「放課後はクラブに入っている人は活動して……。わたしは基本的に帰宅部だけど」 「キタクブ?」 「クラブに入ってなくてすぐに帰っちゃう人の事」 「ふぅん」 「でも音楽好きだから、演劇部の音響係を大会前に手伝ったりしてるんだよ」 「へぇ」 こんな感じで、黒崎さんは短いコメントや相槌しか返してこない。 でも、それでもうれしい。 桜の花びらの舞う路で、男の人と二人で楽しくお話。 このシチュエーションだけでも十分なくらい。 口数の少ない黒崎さんだけど、それでも誘導尋問的に彼のことを聞き出すことができた。 「黒崎さんはアメリカの高校を卒業したの?」 「大学もな」 「じゃあ二十二歳くらい?」 「いや、今年で十七。多分あんたと同じだな」 えっ? うそっ。 「なんだその顔」 「もっと上かと思ってたから。……え? 十七歳で大学卒業?」 「スキップだ」 スキップ? 足でたたんっ、たたんって地面踏む――。 「日本語で言うと、飛び級か?」 「あ、あぁ、うん、そうね」 よかった、素でボケるところだった。 「卒業したのは十五だったけどな」 「うそっ。すごっ。頭いい!」 大学では情報科学を専攻していたんだとか。 当然、学校で使われるのは英語だけ。だから漢字の読み書きよりも英語の方が堪能なんだって。まぁそうなるよね。 お父さんの仕事の都合で物ごころつく頃から向こうにいたけど、去年日本に戻ってきて、今は漢字の勉強もかねて自分が専攻した分野の日本語の論文を取り寄せては読み漁っている。 黒崎さんの話を聞いてると感嘆しか出てこないよ。 もうステキすぎ。 今日は、近くの大学で論文をコピーさせてもらってこっちに来たらしい。この路の終点にあるお寺でお父さんと待ち合わせている。 お父さんかぁ。どんな人だろう。やっぱり頭のいい人なんだろうか。黒崎さんのお父さんなら多分ダンディに違いない。 なんて、勝手に家族まで想像してしまった。 「ミサキ」 彼の呼びかけにドキリとした。 ミ、ミサキ! 苗字じゃなくて、名前! と思った瞬間。足が石畳の間に突っかかった。 そのわたしの腕を黒崎さんがしっかりと掴んで転ぶのを止めてくれた。 「危ないぞって言おうとしたら……。ドジだな」 黒崎さんは軽く笑った。 「どうせ、ドジですよぉ」 ふくれながら、笑いがこみ上げてくる。あぁ幸せ。男の人に名前を呼び捨てられるなんて家族以外では初めてだもんね。 ……でも考えてみたら、黒崎さんはアメリカ育ち。同い年の人とはファーストネームで呼び合うのは彼にとって普通のことなんだろう。 それなら、わたしが名前で呼んでも怒らないかな? 「また助けられちゃった。ありがとう、章彦さん」 章彦さん。 彼の名前を呼ぶ瞬間は心臓が爆発しそうなくらいに高鳴った。 「ん。足元気をつけろよ」 わたしにとっては特別なことなのに、当の章彦さんは、さらりと受け流しちゃった。 わたしがちゃんと自分の足で立っていることを確認すると、章彦さんは手を放した。 もうちょっと、捕まえていてほしかった。 もっと、この路が長ければいいのに。 もっともっと、一緒にいたいのに。 路の終わりが見えてくる。 桜並木も終わろうとしている。 出会った時よりは仲良く話せるようになったけれど、短すぎるよ。 風が吹いた。ひときわ大きく揺れる枝。桜の花びらが舞い散り、わたしと章彦さんを包む。 なんだか、桜に励まされている気がした。 「綺麗ね。桜」 行き交う人々の邪魔にならないよう路の端に寄って立ち止まり、桜と章彦さんを見る。 章彦さんも立ち止まった。 そして、桜を見上げる。 「……あぁ。綺麗だ」 わたしに応えるというよりは呟きに近い声で言うと、章彦さんは路を少し引き返した。 近くにあるベンチに腰をおろし、また桜を見上げた。 彼の隣の空いているスペース。わたしはそこへ滑り込むと、章彦さんと同じように桜を見上げた。 わたし達の前を、たくさんの人が通り過ぎる。 彼らの話し声に時々さえぎられながらも、サラサラ、サラサラ、音を立てて桜の枝が揺れる。 ひらひら、ひらひら、桜の花びらが散る。 まるでわたし達だけ時間が止まったかのように、じっと桜を見つめていた。 「ミサキ。ありがとう」 不意に章彦さんの声がする。 「え? 何が?」 「桜がこれだけたくさん咲いているのに、俺は立ち止まって見上げる余裕すらなかった。いつもそうだ。こんなふうに人とゆっくり話すことも、あまりない」 ふっと、章彦さんの表情が動いた。寂しそうな横顔だ。とても、とても寂しそうな顔。 無表情という仮面に隠していたのは、この顔だったんだ。 スキップ制で十五歳にして大学を卒業したエリートの章彦さん。わたしのように平々凡々な人から見ればあこがれる生活環境だ。でも、彼の心は幸せで満たされているわけではないのかも。何かに追い立てられるように、急いで人生を駆けているみたい。 世界が、違う。 ふとそんなフレーズが浮かんだ。 そばにいるのに、いきなり章彦さんとの間に越えられない壁ができたみたいに感じた。 心に錘を詰められたかのような息苦しさ。 章彦さんは、そんなわたしに気づかないで、口元に軽く笑みを浮かべた。 「うまく言葉にできないけれど、今日ミサキに会えてよかった」 もう二度と会えないと判ってる相手に向ける別れの言葉だ。 だめ、泣きそう。 でもここで泣いちゃ駄目。迷惑かけたくないくらいに好きになっちゃった人は、ちゃんと笑顔で見送らないと。 「わたしも、楽しかった」 ちゃんと笑えてたんだろう。章彦さんがうなずいて、腕時計を見る。 「そろそろ行かないと。ミサキは? 寺の観光?」 「ううん。わたし、もうちょっとここで桜見てる」 「そうか。じゃ、ここで」 章彦さんは立ち上がった。 本当は言いたかった。「わたしでよければいつでも話を聞くよ」と。遠距離電話でも、文通でも、なんでもいいからと。 もっと一緒にいたい。仲良くなりたい。その気持ちには変わりないのに、それはできないことだと、気づいてしまった。 彼がまとう「何か」は、とっても大きな孤独だったんだ。 わたしなんかが埋められそうにないくらいに大きな寂しさを前にして、わたしは自分のエゴを口にすることができなくなった。 ただの善意の押し売りになるの怖かった。 こんなに、一瞬で、すごく好きになってた。 だから。 「それじゃ」 自分から別れの握手を求めた。 章彦さんは、笑顔を見せて手を握り返してくれた。 「わたし、きっとまたここに来る。その時会えたらいいね」 また会えればいいと思うのは本音。 でも判ってる。今連絡先を知らなければ、多分もう会えないだろうって。 「あぁ。そうだな」 手を放してうなずくと、章彦さんはその手を軽くあげ、きびすを返す。 ゆっくりと遠ざかる後姿。 桜吹雪が彼を包み込み、姿が消えてしまうまで、わたしはずっと見送っていた。 わたしの思いは、どこまで彼に届いたのだろう? あふれ出る涙が頬を伝った。 あれから十年。わたしはまたここに来た。 ここは変わらない。路ぞいのお店から十年という時の流れを感じることはできても、路そのものに、桜並木に違いはない。人の多さも変わらない。 知らぬ間にタイムスリップでもして、あの頃のわたし達に会える気さえする。 章彦さんとの思い出は、今もわたしの心の中に留まり続けている。 普段は忘れていても桜の季節には思い出す。 何年か前に彼氏ができた時も、章彦さんを忘れ切るることはできなかった。 確かにあの時は、彼に恋していたと言えるのだけれど、今は好きとかそういう感情じゃない。ただ、あの寂しそうな横顔が忘れられないだけ。 彼の孤独を埋めてくれる人は見つかったんだろうか。 なんだか、もう会えなくなった古い友達の安否を気遣う感じに似ている。 会えるとは思えない。でも今もしも会えたなら、なんて声をかけたらいいだろう。 彼の中でわたしの存在が残っているのかさえも判らないのに、話しかけることなんて出来ないかもしれないけれど。 それでも、会いたい。 もしも奇跡というものがあるなら、章彦さんに会わせてほしい。 たくさんの人がすれ違う。 人々の話し声が交錯する。 「ねぇお兄ちゃん」 「その呼び方、もうやめろよ。俺はいつまでおまえの幼馴染のお兄ちゃんなんだ」 「じゃあ、章彦さん」 「……ん。なんだ?」 すれ違う二人の会話が耳に飛び込んできた時、わたしは思わず振り返った。 若い男女が、並んで歩いている。 男の人の後姿は、十年前に路の終わりで見送った、章彦さんの姿と重なる。 まさか。本当に章彦さん? 連れの女の人が振り返ってわたしの顔を見る。 まだ呆然と彼らを見るわたしを不審に思ったのだろう。「知ってる人?」と彼女が小声で隣の男の人に問いかける。 彼が、振り返ってわたしを見た。視線が合う。 「……ミサキ?」 声は聞こえない。でもそう言ったのだと思える、かすかな唇の動き。 「え? 何? やっぱり知ってる人?」 女の人が、ちょっと怒ったように聞く。 「いや。行こう」 彼は背を向けた。 二人は中断していた話を再開しながら遠ざかっていく。 彼女と一緒に時々桜を見上げる章彦さんに口元がほころぶ。余裕、できたんだ。 よかった。 それが最初に感じたこと。あの雰囲気と会話からして、隣の女の人は恋人なんだろう。十年前に比べて柔らかくなった章彦さんの雰囲気からして、幸せなんだろう。 幼馴染の女の子なら、章彦さんのことをしっかりと判ってくれてそう。安心だね。 でも、寂しい。 なんだろう、この寂しさ。彼が幸せそうで嬉しいのに、心の片隅に痛みがちくっと残った。 彼らの後姿を風に舞う桜の花びらが覆う。 あの時と同じように、章彦さんの姿が小さくなっていく。 わたしはまた、見えなくなるまで彼を見送っていた。 今度こそ本当にさようなら、章彦さん。 唇から笑みが、瞳からは涙がこぼれた。 (了) |
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この作品は「音楽をお題に小説を書く企画」のために、以前に書いた作品を改稿したものです。 お題音楽は倉木麻衣の「Time after time 〜花舞う街で〜」です。 元々の作品は、2005年にサイトのキリ番リクエストで頂いたものでした。 作品をそのままこちらの企画用にUPしてもよかったのですが、今のわたしの作風にしてみたいと思い、改稿いたしました。 と言っても、さほど変わってはいません。せっかくの一人称小説なので、心理描写を中心に書き足しました。 改稿前と同じく、長編「摩天楼の翳」番外編にあたりますが、これだけでもお読みいただける作品にしたつもりです。 アニメのタイアップ曲で長編の番外編を書くという、いきなりレアな例をだしてみました(笑)。 少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。 それでは、次の作品で。 2012年10月 9日 |